論理もコミュニケーション能力も天才に仕えるもの。
コミュニケーション能力をウリにする人が醜悪な理由
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060414/1144999515
非常に興味深いエントリーをみつけました。書いてあるのは、
- コミュニケーション能力ばかり高く、中身のからっぽの人間は醜悪である
と言う事です。自分が気に入っているのは
まして、自分自身はたいして価値を生み出さないくせに、そのコミュニケーション能力や政治力を駆使して、要領よく立ち回り、価値の分け前にあずかり、おいしい立ち位置を手に入れ、でかい顔をして、その醜い能力を誇り、恥ずかしげもなく「空気読め」など言う奴らは、人間のクズだと断じて良いでしょう。
と言い切っているところですね。確かにコミュニケーション能力だけを追求していった先にはこのような事態が潜んでいると思います。最後にこのエントリーは
- コミュニケーション能力はあくまで家来に過ぎない
とまとめていました。確かにその通りだと思います。コミュニケーション能力にだけ特化した人、またコミュニケーションの効用に専念した場合は社会や組織は破綻してしまうでしょう。
この最後のまとめを見てクラウゼヴィッツの戦争論を思い出しました。その中の文章で
- 理論は天才に仕えるもの。実践ありきの行動する天才でなくてはならない。
と書かれています。これらのことから言えば、コミュニケーション能力だけに特化しても、理論や合理にだけ特化しても人間社会や組織はうまく行かないということが言えるのかもしれません。
最近コミュニケーション能力をあげるのが一種のブームになってはいますが、反面コミュニケーション能力だけを異常に高める事がその人の人間としての能力、組織に貢献する能力向上に全部直結するわけではない事を、よく肝に銘じおかなくてはいけませんね。